大人になった息子からの電話

昨日は、久々の息子からの電話。

 

息子は今年の4月から就職して、群馬で一人暮らしをしている。

 

ときどき、私に電話をかけてきてくれる。

 

一緒に住んでいる時は、そうでもなかったのに、なぜか離れてから、父、母、妹の事を気づかうようになった。

 

最近の夫の体の調子などを息子に話すと、ひとこと、「かあちゃんも気をつけなよ。」

 

一瞬、グッとくる!が、いつもの守りが自動的に働く。

 

“涙声なんて聞かせられない!”

 

その思いのウラにあるのは、

“余計な心配をさせてしまう…”

“頑張ってる息子の足を引っ張ってしまう…”

“私は、心配などしてもらう資格などない母親だ…”

 

などだ。



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これらを『大人心』と勘違いしてしまう私。

 

でも、この時点で、勘違いだと気づけてしまうから、

 

余計、とっ散らかってしまうのだ。

 

そして、いつものように息子の心配を遮るようにして、

 

「あんた、ちゃんと食べてるの?」

 

「ちゃんと家で休めてるの?」

 

と、矢継ぎ早に心配をし返す。

 

それからの会話は、”うれしい” “ありがとう” “会えなくて寂しい”を隠してしまった分、私の方がギクシャクしてしまう。

 

“何か親らしいことを言ってあげなきゃ”

 

“何か役に立ってあげなきゃ”

 

なんて、感じることよりも先に、くだらない言葉を探してしまう。

 

電話の向こうとこちらの心。

 

せっかく、息子の方が近づいてきてくれたのに、

 

私の方が追いやってしまう。



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息子が子どもだった頃の後悔

思えば、あの子が生まれた時から、私はパンパンにてんぱっていた。

 

初めての男の子。この子を立派に育てなければ!

 

強く、やさしく、逞しく。

 

将来、一家の主になるのだからと。

 

ボーイスカウト、英語、ピアノ、習字、体操。習い事もいろいろさせた。

 

あの子は、私の期待に答えようと、素直に頑張ってくれた。

 

 

だけど、

 

 

野山でサバイバルできることより先に

 

友達と協力することより先に

 

募金箱を持って、街角に立つことより先に

 

「apple」と言えることより先に

 

ピアノの鍵盤をたたくことより先に

 

字をうまく書けることより先に

 

跳び箱が飛べることより先に

 

しなきゃいけないことがあった。

 

それは、あの子に何かをさせることじゃなくて、

 

あの子の前で、

 

「大好きだよ、ありがとう。」と泣ける私になること。

 

あの子を抱きしめて、

 

「もう、疲れちゃった…」と、泣ける私になること。

 

泣けた後の私の本当の大人心を、何度も、何度も取り戻すこと。

 

結果、泣いてるあの子がかわいいと思えるようになること。

 

友達の中に入れなくて、しょんぼりして帰って来たあの子を抱きしめてあげられる私になること。

 

怒りすぎて、叩いてしまって、固まっていたあの子を抱きしめて、目を見て、「ごめんなさい。」と言える私になること。

 

そして、そんな私を見て、感じた息子が、

 

「恐い。」って言えたり、

 

「寂しい。」って言えたり、

 

怒ったり、悔しがったり、

 

体全体で「うれしい。」って言えたり、

 

だからこそ、その結果として、

 

「これがやりたい。」

 

「これを頑張りたい。」

 

が、自然に出てくるんだものね。

 

もう一度子育てをやり直しすることができたら

だから、

 

もう一度子育てをやり直しすることができたら、

 

習い事をさせるよりも先に

 

どか~んと構えた私の腕の中で、

 

あの子を受け入れられる私になって、

 

そんな私の腕の中で、えんえん泣いて、

 

あの子の気持ちをいつでもスッキリさせてあげられる私になろう。

 

子育てと一緒に、私を育てなおすことをしよう。

 

 

そして、息子が大人になった時、

 

「かあちゃんも体に気をつけて。」って声をかけてくれた時、べそべそ泣ける私になろう。

 

実のところ、それ以上のものはないのだから。

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